寄る年波は読む能力も削っていく

Uncategorized
UnsplashEugenio Mazzoneが撮影した写真

特有のサムシング? オア シンプルに加齢?

最近、長文を読むことに今まで以上に体力・気力を使う、ような気がしている。

こうして文章を書くことも同様。

(というか、ものすごく気を使って書いているから時間がかかっているっていうのが大きいのだけど)

昔は活字だろうが、漫画だろうが延々と読み続けいていたような記憶がある。

過去の自分をいい感じに捏造している可能性は否めないのだけど、それを抜きにしても集中力が保てないのである。

途切れ途切れになりやすいし、気もそぞろ。

没頭できないともいうのだけど、如実である。

読むスピードも遅くなっている。自覚できるレベルで遅くなっている。

今まで自分は集中している、と思い込んでたけど、集中できていなかったことが最近判明したことで私特有の性質、気性、気質なのか。

それともシンプルに加齢か。年齢を重ねるにつれて機能が落ちたとしてもおかしくはない。

オア、じゃない。両方だ。

それらだけじゃない何かがある、そんな感じ。

気づけない

長文が読めないこと自体、困ることはない。

けど、読めてない自覚がないがゆえに小さなバグはそこらじゅうで起きている。

小さなことだからやり過ごし、スルーし、ことなかれで気にしないから、困ったなレベルにまで達しない。

大した問題として気づけていないのに、気にします?読めてない現実に対する危機感、感じられます?

まったくもって感じないよなー。

どんどん弱くなる長文に対する能力はこのまま放置される道しか見えんがな。

では長文が適切に摂取できなくて、消化できないことでわかりやすい不都合って、具体的に何よ?って考えると、情報収集できない、処理ができない、伝達が難しくなる、このあたりだろう。

楽なのよ、ホント、受け身ってさぁ

だったらちょっとした時間で本を読めばいいじゃない。

習慣になってない、機会が減ったから使われない機能として劣化していった結果、読めなくなってる部分も大きい。

だったらTHE長文である読書すればいいじゃない。

長文が読めない不都合って主に情報収集と処理、そして伝達。

それをメインに据えると、情報をインプットする方法は読書だけではないってことはすぐ気が付く。

そう、動画だ。音声だ。

・・・動画は楽だ。

受け身オブ受け身で楽しめる、学んでいる気になれる、新たな知識を身につけているような気になれる。

文章を読んでも楽しめるし、ちゃんとなんかを得ている気にはなれるけど、だったら動画でいいやんけ、ってなる。

簡単にアクセスできる安易な誘惑に抗わないと「本を読む」行為に至れない。

スマホはいつも手の届くところに存在していて、画面をのぞき込むだけであっさり動画アプリにアクセスできる。

とっても便利やね。じゃないよ、こんな誘導、こんな誘惑、逆らうほうが野暮ってもんでぃ。

ぐぬぬぬぬ、長文を読む時間よりだらだら動画見ていたい。

脳筋で解決だ!

だらだら動画を見ていたい気持ちと長文読めなくなっていることに気付いて、これを書いている間にどんどん危機感として認識してきた気持ちがせめぎあいをはじめてる。

危機感を放置しているのはどうも居心地が悪い。

だらだら動画の楽ちんさより居心地の悪さの方がちょっと勝る。

もう、さっさとトレーニングしてしまえばいいじゃない。

脳筋が囁くのだ。

これから少しずつ長文を読めるように戻るためのあれこれを記録していこう。

どうやっていくのか、そして、それは効果があったのか、どんなジャンルの長文を読むのか、そういうことをちまちまと書いていこうと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました